アメリカ留学がんばれ
<昔、書いた文なので、ちょっと今と考え方が違っているところがありますが、できるだけ、コメントでそのあたりを示すようにしました。>
上川一秋(うえかわ かずあき)
「英語喉(三修社)」と「機関銃英語が聴き取れる(三修社)」の著者です。
イントロ
第1章 最初に
第1節 留学の準備のしすぎは大損!?
私は、日本を1994年に出たあと、シカゴ大学大学院に行き、2000年に社会学で博士号を取得した。現在は、教育改革評価の専門家として、ワシントンDC(のとなりのバージニア州)にある社会政策系コンサルタント会社でアナリストをしている。
大学院での専攻は社会学を選んだが、もしアメリカの感覚で将来の職業を決めたのであれば、きっと物理とかの科学の分野を選んでいたであろう。が、日本で考えて文系だと思い込んでしまったので、同じ文系内でと社会学を選んだ。少なくとも日本の大学で学んだ「英文科的」な学問から、離れることができたことはとてもラッキーだった。もともと高校3年生のときに英語が得意だったというだけの理由で選んでしまい、大学にはいったものの、文学を研究するとは何かの問いに答えることができなかった。
多くの日本人の留学生が、それまでやってきたことを留学後もやろうとする。本書の目的の一つは、読者の皆さんに留学を契機に、それまでとはまったく違った勉強も可能であり、当初描いた職業選択から大いにはずれることも、可能であるし、もしかしたら好ましいことかもしれない、ということを伝えるためである。
もちろん、もっと日本で準備をして、一直線にがんばれ!というアドバイスをする人もいるだろう。でも、その人達は、もし留学アドバイザーだったとしたら、仕事だから、日本で準備がいるんだと恐れさしたほうが、その人達の仕事がもうかるということではなかろうか???
準備をやって成功した人達だ。同じことをやって、成功しなかった人もいるし、また大胆に様々な可能性をさぐって成功した人も、不成功した人もいるかもしれない。しかし、私が今言えるのは、一緒に働いている同僚たちとか、他の人と話をしていると、
10年前に、今の仕事をしている仕事をしているとは、夢にも思わなかった、、、という人が殆どである。
私は、日本でてっきり社会学の特にエスノグラフィーというのをやるのだ、そして大学の先生になるのだ、、、とばかり思っていたのだが、今は、なんと統計分析をして、米国政府や州政府などのためのコンサルタントをする会社にいる。
日本の感覚で目標をたて、あまりに準備すると、日本で到達可能であろう職業を目指して米国でがんばることになる。私の意見では、米国で勉強する場合は、米国の感覚で、職業を決めるべきだということを本書では主張したい。
私の場合
私の場合は、日本の大学での専門は英文科であった。でもそれは日本の教育制度のなかで考えた「やりたいこと」だった。でも日本で考えたことには限界がある。そもそも日本では当たり前の区分け法である文系、理系という区分でさえ、日本にしか存在しない独特なものである。例えば、私の専門の社会学は日本では文系科目である。米国においては、社会科学という分野であり、文学や歴史とは一線を引いている。
「やりたい」と思っていることでも、それが本当にやりたいのかよく考えることが大切であるが、事実上は、日本の教育制度の下で、本当に「やりたいこと」を考えるのは無理だし、無駄である。
なぜ無理なのだろうか。
しかし、日本でこれを考えているかぎりは日本の感覚でのみ、思考が可能となる。例えば実は理系のセンスがあっても、文学部を卒業した日本人は絶対にエンジニアになることはできない。雄弁でも弁護士になることはできないし、人間に対する深い興味があっても、高校3年生までにその決断をしなかったものは、医者になることはできない。
いやなれる、、という人もいるだろう。でもそれは個人的にとてつもない努力を、あとでする人たちであり、多くの場合、運に頼らなければならない。
米国留学を目指す場合は、トレーニングの場所は米国になるが、トレーニングの内容を同じ米国で考えないとすれば残念である。日本で考えて、日本での過去の経験をもとに、アメリカで何を勉強することを選び、将来を決めることは、やもおえないことではある。しかし、できれば、米国の感覚で将来の目標を立てることが大切である。
弁護士になる方法というような本を読んだことがある。アメリカ人の書いた本だった。
To
Be a Trial Lawyer (Paperback)
by F. Lee Bailey
この本には弁護士になるには、英文学とか心理学とかを専攻するとよい、、、と書いてあった。日本では、どこを探しても英文学と「弁護士」という職業を結びつける人はいない。この著者によると、文学は書いたり読んだりすることを鍛えるし、心理学は心の動きをまなぶので、弁護士のする仕事の準備になる、、、ということだった。
あるいは、アメリカ人の高校生に「医者になるためにもっとも大切な教科はなんだと思いますか?」と聞いて、「数学」と答える人はかならずしも多くない。おそらく、「生物」だと思う。日本では、「生物」はどちらかというと「物理」を選択したくない文系高校生のとる科目ではないだろうか?
つまり、日本の受験という制度があるからこそ、日本では医者になることと、高校時代に数学ができることが関係している、、と思われている。弁護士に関していえば、日本では、弁護士になる特殊な試験があるから、文学とか心理学を大学で勉強したあとに、弁護士を目指す人はいない。
つまり、人々の将来設計は、制度によって、決定されている部分が大きいのではないだろうか。とにかく、来てみないと想像がつきにくい文化が米国にはあると私は感じている。その雰囲気を少しでも伝えることができればと思う。
第2章 大学院にはいるまで (1994年秋以前)
第1節 退職 「成功するか、ルンペン(こじき)になるか」との上司の言葉
1992年に大学を卒業、その後私はある私立の進学校にて英語教師を2年務めた。大学時代に交換留学で米国の大学を経験していたので、将来は大学院に戻るというぼんやりとして期待があった。大学を出たあとの最初の仕事であり、「やめること」になれていなかったし、そもそも「始めたら最後までやりとおす」ということを小学校あたりから教えられてきたこともあったのだろう。辞意を示したときは緊張した。日ごろから世話になってきた同僚に、裏切りのような気持ちがどうしてもしたものだ。その職場では、「専任」というポジションをもらっていたので、安月給とはいえ、いわゆる終身雇用である。校長先生は、私のその決断を心配し、将来、私が成功するのか、あるいはルンペンになるのか、、、というような内容の言葉を冗談で発された。
今、この冗談をアメリカに住んで思い出すとおおげさだったなあ、と感じる。アメリカ社会においては、高度の教育を目指す若者が仕事をやめることは当たり前のことである。私が現在つとめる研究所でも、大学しかでていない研究助手が、就職して数年から5年以内のあいだに、大学院へもどるため仕事をやめることは当たり前のことである。
私はコンサルタントでアナリストとして働いている。助手の人達は、アメリカでは当たり前のことをしているだけなのだが、日本でこういうことがありえるか、、という考えると、あまりにもかっこよすぎるなあ、、、と思うので紹介したい。
<この会社には今勤めていません>
ある人はたぶん23歳ぐらいで、大学を卒業したばかりである。大学時代の専門は映画研究であったそうだ。しかし、今は立派に社会科学のデータ収集、データ管理の仕事をこなしている。今は、研究を通じて、科学的な作業に必要な分析などを実地訓練を通じて学んでいる。また学会発表の論文などにも名前を入れてもらっているので、論文を執筆する訓練もしている。
しかしである。そういう彼女も2,3年すれば、きっぱりやめていくのである。やめて、大学院に戻り、実地で養ったスキルをもって、さらに高いレベルの知識を受けるのだ。プロの世界では、キャリアアップのためにやめていくのが当たり前なのである。
当たり前のようにやめていき、当たり前のように、大学院へもどり、自分の力をつける。これはとても幸せなシステムである。
<さて、上の文章は、アメリカの景気がまだどん底でないときに書いたものだ。2004年ぐらいだったろうか。その後、景気が非常に悪くなって考えかたが少し違ってきている。結局のところ、会社が大学生の新卒を安く使っているということではないかという気が今はする。>
私は日本で仕事をやめるときに、上司に「ルンペン」になるのか、、、と言われたことを思い出す。なんと不幸なシステムだろう。
もちろん、大学を卒業して、一生懸命つとめあげて、スキルを磨く立派な人が日本にはたくさんいる。しかし、それは経済のせいもあって、現在では30代ぐらいの人だけの話ではないだろうか。経済のせいでもあるが、制度的に、新卒を採るという習慣がまだまだある。だから個人が大学を卒業してからも、自由に大学院などを通じてキャリアアップをするということがポピュラーでない。
<以上の文は、アメリカの経済がまだよくと、ほんの少しだけアメリカンドリームという感覚をまだ信じていたときに書きました。現在は、キャリアというのは、長く続く、しんどい道のりだなあと感じています。あまりそれを夢のように語る気がしなくなりました、、、>
第2節 「退職して留学」という言葉は日本だけで使われている
日本では「社会人をやめて留学を」とか、「会社をやめて大学院に」という言葉がある。「会社をやめて」の部分は、米国では当たり前のことなので、あまり言わない。例えば、グーグルで「会社をやめて留学」をサーチすると、この表現をふくむページがかなり引っかかる。「会社をやめて」と「留学」という単語が、当たり前のように一つの文に現れる。英語でのグーグルの場合は違う。Study abroad Quit company
でサーチしたとき、これら二つのコンセプトが一つの文に現れることはまれである。ひっかかったhpをみると、日本人が書いた文章だった。会社をやめることは、もちろん日本でもアメリカでも大変ではあるが、特に終身雇用的な制度があり、今でもなくなりきっていない日本においては、「会社をやめる」というコンセプトに重みがあるのだろう。
第3節 大学院はこうして選んだ 「白人先生」流
社会科学系で有力な10程度の大学を選び、そのなかから5つぐらいに絞り応募というやりかたを、当時親しくしていたアメリカ人の人類学者(アンディー)から教えてもらった。まずその有名な大学であるが、アンディーの言葉によると、だいたい次のような大学だったと思う。
ハーバード大学、ミシガン大学、シカゴ大学、コロンビア大学、カリフォルニア大学バークレー校、スタンフォード大学
米国に10年ほど住んだ今だと、ペンシルバニア大学もこのリストに入れるだろう。また、このリスト以外にも優れた大学はたくさんある。しかし、今になって分かるのだが、この上の大学は、大学院が優れているということだけでなくて、就職状況が厳しいアカデミアにおいても、就職が比較的有利である、、、という点にもとづいてアンディー氏が選んでくれたのだと、今は思う。
あとで詳細することになるが、博士号取得後の大学への就職は1つのポジションに250人ほどの応募がある。この250人という数字だが、現実には、まだ就職の準備ができていなくても応募している人たち(見切り発車組)がかなり含まれた数字らしい。実際は50人程度の人数内での戦いとなるようだ。
それにしても、激戦であることには間違いがない。いい大学院でないと、就職が難しい。ただしここでいう就職とは大学教授としての就職である。
私の大学院での就職ガイダンスにおいて受けた説明では、米国の一流大学での教授職への就職で重要となるのはどの大学院にいったかということらしい。250ほどあつまる応募者を、まず小さな30人ぐらいのプールにする際に使う尺度は大学院名と出版の有無の二つらしい。博士課程の学生にとって、一流大学に就職できるかどうかというのは、具体的にはリサーチができる大学に就職できるか、という意味である。教えることのみに重きを置かざるを得ない2流以下の大学はさけたい、というのが本心である。
、、、と昔は考えていたのだが、アメリカで就職して考えが変わった。同僚を見ていると、いろんな地味な大学の大学院の出身者であり、とてもよい仕事をしている。必ずしもエリートの大学院に行く必要はない。
確かに大学教授として就職するためには、エリートの大学院に行っておく事がよいのだが、教授職というのは異常なほどないのだ。ポジションが絶対的に足りないのである。
<上の文は、まだ大学教授になったほうが良いという考えのときに書きました。現在は、大学教授のポジションが非常に少ないということもあるし、給料もものすごく低いということもあり、あまり魅力を感じてはいません。でも、自由に研究ができるのは良いと思います。>
第4節 結構いいかげんな大学院応募の手続き GREは勉強するな
大学院応募の手続きに関しては、私自身がややユニークだった点がいくつかある。まずは、GRE、つまり大学院用の標準入試テストをまったく勉強せずに受験した点である。その理由は、GREの英語の試験問題集を読んでみると、それはネイティブ用の試験であり、勉強しても無理だと理解したからだ。また、シカゴ大学などいくつかの大学院で、外国人はGREを提出する必要はない、、と明記されていたからである。いちおうはGREを受けてみたし、結果ももらった。案の定、数学だけが普通以上で、その他はかんばしい結果ではなかった。大学院応募の応募書類にGREのスコアをいちおうは添付したものの、自分が英語を第2外国語とするものであるということを、GREのスコアを書く欄に明記しておいた。
次にユニークな点は、私の推薦状である。一人は大学時代のゼミの先生で、これは私の授業を通じた感想を書いてもらった。二人目は、前述のアンディー氏で、彼は人類学の博士号をもつ学者である。私は当時、人類学的なアプローチに興味があったので、彼が京都の大学でもっていたクラスに出向いていって、自分の興味を説明した。また応募エッセイを見てもらうことで、私の研究の内容を理解してもらった。(この先生は最近日本のテレビで「白人先生」という名前の英語教師として有名になったという。さすが、先生である。)
3人めだが、これは高校の同僚で、オーストラリアからの先生だったが、彼は私の教育にかける情熱のようなものや、人格に関するもの?を語ってくれた。同僚からの手紙は、5つほどアプライした大学のひとつが要求していたものだったが、結局、3通の手紙が、色々な角度から私の適正について語ってくれていると理解し、全部の大学、その3通の組み合わせで望むことにした。
やや、決まりを無視した応募書類だったように思う。例えばGREだが、GREは外国人には関係ありません、、と明記のあったのはシカゴ大学だけだったと思うが、その他の大学の応募書類においても、「自分は外国人なので」という理由で、GREスコアを考慮しないでくれと明記した。その理由は、自分で勝手に決めてしまった。自分はGREを勉強しても、スコアは上がらないし、受験勉強なんてしたくないし、意味もないからだ。推薦状も、普通は送りそうにない同僚の手紙を全ての大学院に送ったのも、自分で、自分の多くの側面を見てもらうことにしたからだ。
後で考えると、この戦略は悪くなかったように感じる。一つの理由は、どこの大学でもいろいろ応募の決まりがあるが、応募書類の審査自体は学部ごとに行われているとうい点に注目してみたい。例えば、大学院全体でGREは必要だとか、外国人なら必要なし、などとこまごま書いてあったとしても、実際の決断は学部の教授のなかで応募書類は議論される。したがって、細かいことは、そのマクロのレベルで決定されるのだろう。全体で決められている決まりは、無視されている可能性がある。
第5節 財政証明はまじめに出しているのは日本人だけ
応募書類とはいえ、いいかげんなことが結構通用するのである。例えば、大学院応募時に要求される財政証明などは、実はアメリカ人やその他の外国人は無視するようだ。日本人はまじめにとって、親の貯金などをプールしてもらって、銀行に証明書をだしてもらう。アメリカ人なら、手紙を添えて「自分にはお金がない。親の財政証明を出すこともさけたい。なぜなら、親と私は経済的に別だからである。」と訴える。中国人の友人は、生活のレベルが違う中国のことだから、財政証明をだしても多くの金額はしめせないから、最初から出さないのである。
第6節 財政援助なしの合格通知を合格と見るのは日本人だけ
お金がないと言い張っておき、また学費免除、財政援助がなければ、進学が難しいと断っておいて、財政援助を約束した合格通知がくれば、合格とみなし、合格であっても、財政的な約束がないと、不合格とみなす。これがアメリカ人や、経済レベルが低い国からやってくる留学生の現実的な考えかたである。
第7節 TOEFLさえ関係なし!??
日本人なら絶対的だとかんじているTOEFLでさえ、シカゴ大学社会学部の場合は、やや弾力的に使われていたように思う。TOEFLで点数がぎりぎりの場合は、英語学校に通うことが指導されていたようだ。
第3章 シカゴ大学大学院社会学部 入学、コースワーク、進級試験
第1節 入学
1994年の秋にシカゴ大大学院へと進学した。初めてシカゴ大学を見たときは、お城のようだと思った。石でつくられた頑丈なものだ。ゴシック的な建築方式らしい。
シカゴには、シカゴ社会学派という昔の学風があったためか、社会学部は有名で、全米ランキングはウィスコンシンにならんで1位か2位である。1位になった年は、「今年はランキングが正しい結果であった」と、雑誌の記事が掲示板に張られていた。
<大学院のランキングにまだ興味があった時代の文です。今はどうでもよくなりました。だって、仕事ができる、できないは大学院の名前に関係ないし、そもそも、ボス達が大学院に行っていない人もたくさんいるのですから。皆、卒業後の経験によってキャリアを作り上げています。>
教授は20人ぐらいしかいないが、大きくわけて二つのアプローチをもった教授たちがいる。一方で、サーベイを使い、統計モデルを用いて研究する人たち。もう一方で、歴史的に存在するものを丁寧に見ていく人たちがいた。たとえば、けっこう有名人のサセン先生は、グローバリゼーションの専門化で、近年の世界的な動きであるものを理論化しようととりくんでいる。クラーク先生も全米の都市の経済の浮き沈みを、あたらしい文化的な流れとしてとらえている。
いずれにせよどの先生をとっても、どの学生をとっても、(当たり前のことなのだが)、理論と実証の両方を重んじている。理論を語るだけでなくて、それが正しいかどうかをデータを集めてきて証明する。
というと、理論ばかりで実証のない社会学がどういうものか、という話になるが、本の引用ばかりで、理論の実証にかけている類の研究がそれである。これは、経済学部のノーベル賞学者ベッカーの引用だが、本を読んで本を書くことのナンセンスさを彼は説いている。理論は、現実のデータによって証明する。その証明の過程で、思いもしなかったような発見があることもあるだろう。そういうプロセスを重要視するのが、私が学んだ社会学だったように思うが、これは別にシカゴの特徴ということではなくて、社会科学とはそういうことなのだと思う。
日本の社会学で盛んなのが学説史というやつである。この学説史こそが、本を読んで本を書くナンセンスな社会学の代表のよう、、、というようなことをアメリカで社会学をやった日本人とすることがある。XXX(理論化の名前)がYYYにいかに影響をあたえ、そのYYYがいかに米国の社会学者たちに受容されたか、、、という歴史的な描写がつづくスタイルの研究がこれである。社会の研究でなくて、社会学者の研究と言ってもいいだろう。日本にいって、「誰を研究してますか」と聞かれ、答えに困ったことがある。
<ある友人が、日本の学界で、「そんなこと研究して、どうなんの?」みたいな質問を放って、かなり笑えました。>
第2節 一年め アメリカの大学院にも「同級生」という概念があった
入学のとき、初めてEメールアドレスというものを与えられた。当時は、日本の誰にもメールを打ったことがない。誰もメールアドレスを持っていなかったし、英語のPCで日本語が打てるかとかというハードルがあったように思う。
同時に初めてもったのが、大学院での同級生である。COHORTという言葉を始めて知った。同級の学生を集合的にそう呼ぶ。私のコホートは20人だった。日本人が二人、中国人が二人、そしてそのあとはアメリカ人である。平均年齢はおそらく27歳ぐらいだったように思う。大学を卒業してすぐに進学した学生は少なかったようだ。
<今考えると、大学を卒業してすぐ大学院に来ようが、ちょっと働いて来ようが、どっちでもいいと思います。大学院を卒業してからのキャリアから考えると、あまりにも小さいことなので。>
一年生のあいだは、このコホートが心のよりどころ的集団であった。一年めは、社会学の基礎を学ぶような授業を皆が一緒に受講する。だから、一緒に図書館にいったり、課題を議論したり、皆のまえでプレゼンテーションをしたりで、一緒にすごす時間が長いのである。
全部で20人なので、結構仲がよくなる。とはいえ、アジア系同士が仲がよいということはやはりあった。私ともう一人の日本人男性、それから中国人の女性が二人。それでも20人のなかのたった4人なので、非アジア系にもけっこうとけこめた。ユダヤ系の同級生が3人ぐらいいて、ユダヤの祭りのときに、コホート全員を招待してくれて、宗教的な食べ物をふるまってくれた。
<私は英語喉という本を書きましたが、英語を喉で発音すると、周りがフレンドリーになります。当時は、英語喉を当然やっていなかったので、アジア人としか友達になれませんでした、、、涙。詳しくは、英語喉で検索してください。>
アメリカ人のなかでもややユニークな人たちがアジアからの私たちの相手をよくしてくれた。変わり者というのは、たとえば頭を丸めてフーコールックの男性、社会の不正義にたちむかう女性、お母さんがドイツ人の男性、とにかく頭がすごくよい女性。全員に言えていたのは、我々アジア系にやさしく、一緒にスタディーグループをやってくれた。また私たちにやさしい全員に言えていたのは、全員が1年か2年めで大学院をやめたことだ。ユニークでややマージナルだから、外国人にやさしくしてくれたのか?またユニークでマージナルだから、やめていったのか????(あとで「大学院をやめる」ということについても触れたい。)
一年がすぎ、二年がすぎると、このコホートで集まるということはなくなってくるのだが、今でも学会ではやはり同級生という感覚で挨拶することになる。
第3節 日本での社会学の勉強は無駄だった!
例えば、私はアメリカ人の同級生とともに、ブルドューのプレゼンテーションをしたが、彼女は彼の名前を聞いたことがないと言っていた。ルーマンを読んだが、それもきっと皆知らなかったと思う。そこで、日本から来た級友は、「アメリカ人が結構、社会学を知らない」という印象を受けたようだ。しかしこの解釈はいくつかの点でやや不公平である。一つめは、日本から来ている大学院生はたいてい日本で修士号や、あるいは博士課程を終えてから留学している人が多い。アメリカ人のほうは、社会学の専門は1年目である。したがって、「アメリカ人が結構知らない」というのは気持ちは分かるが不公平な比較ではある。
第2になぜこの比較がややアンフェアかというと、アメリカ人は、学説をそれほどやらないという点がある。確かに重要な社会学者に関してのクラスは受ける。社会学部の必須である社会学史のクラスはコホート全員が受けるのだが、それでも重要視されるのは、4人ぐらいのものである。ヴェーバー、マルクス、デュルケーム、そしてジンメルだ。これらは、確かに重要な理論化であるし、彼らがいかに社会を説明しようとしたかに、もちろん興味は持つ。しかし、例えば、ジンメルがアメリカでいかに受容されたか、などにはまったく興味がない。興味がない理由は、社会学は社会を研究する学問であり、社会学者を研究するという発想がない。
そもそも大学院受験というものがないのも、これに関係している。試験だが、受験勉強という概念がアメリカ人にはないのではないかと考える。もちろんGREを短期的に勉強したりするが、大学院を受験するために、入試勉強的な勉強はしない。
日本での社会学勉強は本当に無駄だった。日本にいるあいだに、学校の教師をしながら、ほそぼそと日本人の書いた社会学の本を読んでいたのだ。当時、フーコー、ブルデュー、イリイチ、とかいった社会学の理論家の翻訳本とか、日本人がまとめた社会学まとめ本をよみあさったのだ。例えば、浅田あきらの「構造と力」という本が頭に浮かぶ。アメリカにきて、社会学の本場であるシカゴ大学では、これらのことがまったく訳にたたないのである。それはそのはず。アメリカの社会学は社会を研究する学問である。社会学の理論家がこういった、ああいったというのはまったく役にたたないのだ。
<今は、私の青春を返せといいたい。机について本を読むのは無駄だった、、、。そもそも、学者は本を読んでいなくて、普通は学術論文の雑誌を読んでいると思う。本はトイレでクソをしながら読むものだと思う。>
このときほど日本で留学準備と思ってしたことがまったくの無駄であったことに気がついた。ただし、訳にたったと思うことは、いわゆる「社会人経験」だ。私は高校の教師をしていたのだが、毎日の職業生活のなかで、しっかり観察して、気がついたことをメモしたり、考えたりしていた。その経験が、その教育研究をしていくうえで、感覚的に訳にたったように思う。ただし、あくまでも感覚的にである。社会科学科学的なトレーニングを受けないでしている観察にはやはり限界があったように思う。
大学院に行く前に、自己流で考えていた研究内容は、シカゴにきて木っ端微塵に散ってしまった。大学院とは、やはり科学的なトレーニングを受けるために行くのである。そのトレーニングを受けないうちに、自己流で準備をしても無理がある。
あえて言えば、英語で書くということとと、リサーチの方法論の基礎になる数学をちゃんと学んでおくということをお勧めする。
<と、前は書きましたが、今はそれほど自身がない。とりあえず、
英語喉50のメソッド と 機関銃英語が聴き取れる
やってください。それから話しよう。>
第4節 先輩後輩がない
当たり前だが、アメリカには先輩後輩がない。かわりに、誰と誰が同じコホートがという感覚はある。ジョンは同じコホートだったが、ジェニーは一年先のコホートだった、、というような言い方をすることはする。ただし、皆で一緒に授業をうける1,2年をすぎると、このコホートというインフォーマル組織も意味を失っていく。1,2年をすぎると、それぞれの専門に散っていくわけだが、特に意味をもつ組織としてはシカゴ大学の場合は二つある。それはプロジェクトと、ワークショップである。特にワークショップが盛んな点はシカゴ独特とされている。ワークショップとプロジェクトに関してはこのあと述べる。
とにかく先輩、後輩がないのである。だから先輩に怒られるということは絶対にない。米国はやはり平等感覚が強い。そもそも誰が上か下かが良く分からない。同じコホートでも年齢がいろいろだ。平均は一年次で27ぐらいだったが、大学からすぐ来た人もいれば、すでに職業をもっている40歳ぐらいの人もいた。それから、誰がどの年度か、というようなことがそもそもよく分からない。日本だとD1,D2というふうな便利な記号がある。アメリカでも、何年めかということは言うけど、D1、D2のような決まった名詞、つまり便利な記号がない。
またアメリカでは日本と違って、修士論文や、その他の試験を受けるタイミングが人によって違うのだ。日本だと、2月ぐらいになると、修士論文の締め切りに間に合わそうと、緊張感をもっている人たちがいて、「ああ、あのひとたちはD2だな」と分かる。そういう人たちが大学院生用の部屋であせっている姿が見られる。アメリカだと、修士論文や色々な試験の期日は個人が勝手に決めるのが殆どだから、そういうことがさっぱり分からない。(ちなみに私はMAを4年めに終えて、PHDを6年目にとった。なかには、PHDをとる数ヶ月前にMAをとるひとがいると聞いたことがある。PHDの理論の章の部分をMA論文として提出しておいてから、研究の全体を博士論文と呼ぶらしい。これは、こういう話を聞いたことがあるというだけである。
また同じ学部所属の大学院生の姿を一箇所で見ることもそれほどない。確かに、社会学の部屋というのはあったが、コンピュータなどは置いていないから、日本の研究室のような院生の集合場所がないように思う。だから、誰が先輩か後輩とかを意識しない。アメリカ人が社会学の学部へ行くのはメールホルダーを見に行くためだけだと思う。
第5節 教授と学生は酒を飲まない
教授たちにしても、上下の関係がゆるい。頭のよいおっさんとおばさんの集団であり、彼ら彼女らにおべっかを使う必要が全くなかった。教授たちとは博士号を取るまでは、アカデミックを通じてのみの付き合いであることが多い。シカゴでは、授業のときは、お互いをMRとMISで呼ぶ習慣がある。これはハッチンソンスタイルと呼ばれているらしい。シカゴ大学の創始者か何かの方針だったからこう呼ばれているのだろう。社会学の基礎授業を受け持ってくれたコールマン先生がはじめてこのスタイルについて教えてくれて、生徒をMRとMISで呼んでいた。我々のほうも、教室では教授をMRとMSをつけて呼ぶ。実際は、やはり指導的な立場にある教授たちをあえてPROFESSORとかDRとか呼ばずにMR、MISで呼ぶのは、かえって特別な感じがした。
教室外では、親しければ教授をファーストネームで呼ぶことになる。私の恩師は70歳代で、すでに引退しているが、私は彼をチャールズと呼ぶ。日本語で考えると、自分の倍ぐらい生きた人にむかって「たかし」とか「けんじ」と呼ぶということになるわけで、やや妙である。しかし、最近、研究所につとめてより多くの同僚に接するようになりファーストネーム使用のありがたさが分かるようになった。アメリカの同僚のラストネームはあまりに多様で、それを日常から使うとすると、覚えるのが無理なのである。反対に、サラ、ステファニー、デービッド、ダン、などありがちな名前の同僚で混乱するかというと、そうでもない。研究所のプロジェクト間でほどよく分散しているので、なんとなく分かるのだ。
そもそもアメリカ人にとってファーストネームが同じであることは、まったくの関心外で、どうでもよいことのような気がする。先日の大統領選挙でジョン ケリー氏とジョン エドワード氏が民主党の候補となったが、日本だったら、きっとジョンジョンコンビとかいって、面白がるだろう。選挙中、一度もそういうことを聞かなかった。ファーストネームに関しては、考えかたが日本人とやや違うような気がした。
元のテーマに戻るが、教授たちとは博士号をとるぐらいからお友達的な要素がでてくる。博士号をとってから、一緒に研究する教授たちからは、STUDENTでなくて、COLLEAGUEと呼ばれるようになる。日本のように学生と教授と飲みに行くということは起こらなかった。たまに、社会学部が主催するピクニックなどでは、もちろん皆でビールを飲むが、プライベートで酒を教授と飲むということは決して起こらない。
そういう習慣になれると、日本で学生と教授が酒を飲むという行為が、やや妙に思えてくる。私も日本の教授のホームページを見て、びっくりすることがある。教授の趣味が酒というふうに平気で大学のHPに書いてあるのをみると、宇宙人の文化と感じる。学生とコンパだとか合宿だとか、いうことが教授のHPに登場することは、信じられない。変なの~~~と感じる。
第6節 シカゴ大学独特のワークショップ 学際的ということ
ワークショップというのは、テーマごとに集まる集団である。2週間に一回ぐらいどこかにあつまって誰かがプレゼンテーションをする。発表者は教授だったり、大学院生だったり。外部から招くことも多くある。
私が参加したのは、社会ネットワーク分析のワークショップ、教育社会学のワークショップ、都市教育問題のワークショップ、それから人口学のワークショップだった。別にコミットする必要はなく、行きたいときに、いきたいワークショップに行く。ワークショップのリストがあるし、また宣伝のビラが貼られるので、それを注意して見ておく。
それぞれが、教授たちによってリードされている。教授たちは、ワークショップの世話をするのも仕事のうちと換算されているようだ。(これは仕事が増える、、、というより減るという感覚だと思う。ワークショップを主催することが仕事の一部になると、それだけ授業を教えなくてよいからだ。)
たいてい30分から45分ぐらいでプレゼンテーションをし、残った30分で質問を受ける。私も、合計5回ぐらいはワークショップで発表したと思うが、シカゴ大学内でしごかれておけば、対外試合になれることになる。たとえば就職活動で、発表してかえってきて、「他の大学では、シカゴ大学ほどきつい質問はでなかった」という感想を日本人の大学院生から幾度か聞いたことがある。
この話(シカゴがとびぬけてすごいということ)はしばらくは信じていたが、大学院を終え、ポスドクや今の研究所などで、他大学の出身者と接するうちに、どこにいっても厳しいということがよく分かった。科学的手続きは同じなので、シカゴだけが厳しいというわけではないということがよく分かった。最初のポスドクでいた南フロリダ大学は、タンパという国の中央から離れた場所にあるものの、アカデミアはアカデミアである。
英語でそんなに長くしゃべれるのか、、、と思われるかもしれない。確かに、最初のころは、緊張したり、英語を書いたの用意していった読んだりということをする。しかし、大学院も何年もやっていると、毎日毎日、同じ研究を追及しているので、さすがに慣れてくる。かえって学会での短い15分のプレゼンテーションのほうが難しいことがある。短い時間で、伝える必要があるからだ。
シカゴ大学のワークショップは学際的であった。例えば、社会ネットワークのワークショップはビジネススクールの人、経済学の人、社会学の人などなど、いろいろ集まる。集まれば、教授とか大学院生の違いはあまり感じられない。自由に言いたいことを言っている。経験研究だと、誰がやっても穴があったりするから、えらい先生でもこてんぱんに突っつかれるのである。
第7節 RAとして研究プロジェクトに参加 ここから全てを学んだ
大学院生の生活スタイルや学習のペースはいろいろな条件によって異なる。例えば学年によっても違うし、分野によっても違う。このようなカテゴリーの中でも特に個人個人の大学院生活に影響を及ぼすのはどのプロジェクトに属するかということである。RA、つまりリサーチアシスタントとしてである。私自身は2年目から、恩師ビッドウェル教授のプロジェクトに参加した。学校組織と高校生の学力到達度の関係を調査するプロジェクトで、シカゴ大学に付属する研究所NORCの研究室を与えられた。そこで統計ソフトのSASの使用をはじめ、いろいろなリサーチ手法および、社会現象のモデリングの方法を学んだ。結局、自分が今知っていることは、シカゴ大学のコースワークというより、このプロジェクトの参加で学んだと思う。
プロジェクトとは、教授たちが財団などから経済的支援をを受けて行っている研究グループのことを指す。大学のランキングがどれだけプロジェクトが盛んかとか、どれだけ大学全体の基金の合計額などによっても決定されるほど重要な項目である。シカゴ大学社会学部の教授達は、前述のNORCという研究所に多く属し、共同研究を行っていた。
もちろん大学院生の全員がプロジェクトに属すわけではない。コースワークで忙しい一年生の間は、プロジェクトというより同級生同士で団体をなし、勉強会をひらいたり、社交をしたりする。あるいは文学や理論の分野のように、グループ研究の習慣があまりない場合、学生はプロジェクトというより、ワークショップなどを拠り所とするであろう。プロジェクトは特に大人数による研究を必要とする理科系や、大きなデータの分析をする社会科学の学生がリサーチの方法を実践で学ぶ場所である。
もちろん、給料の源となることが重要な点だが、それに加えて学生はプロジェクトの仕事を通じて、研究のイロハを学ぶ。しばしば学生はプロジェクトで集めたデータをもとにして博士論文を書く。指導教授も、仕事上のボスであることが多い。ちなみに、自分の属するプロジェクトのデータを使う場合は、プロジェクトチーム以外の教授も博士論文コミティーに加えなければならない、という決まりがあったように思う。同じプロジェクトからばかり教授を選ぶと、博士論文審査の判断が甘くなってしまうことを防ぐためである。(博士論文コミティーというのは、あとの章で解説するが、博士論文の指導チームであり、3人から5人ぐらいの教授からなる。)
いいプロジェクトに入っているかどうかが、実力の決め手になるという考えもある。逆にプロジェクトで忙しすぎて勉強がおろそかになるという考えを日本人の大学院生から聞いたことがある。彼の意見では、プロジェクトにはまりすぎると自分のリサーチができなくなる、、、というのである。しかし、これはおそらく彼の誤解である。プロジェクト参加なしに、研究のイロハを学ぶのは困難だと思う。
またプロジェクトに属していると、指導教授などと、共著者として論文を出せる可能性が高い。私のポスドク時代のオフィスメートは、6箇所の大学から、就職面接のまねきを受けた。なんと、6本ぐらいの論文があったのだから、当然である。それはやはり大学院時代に、プロジェクトに属すことで業績を増やしたのである。私自身も、恩師のプロジェクトで論文を出すことができた。出せたということがよかったというのもあるが、教授たちと論文を書くと、この道のいろいろな技術を学ぶことができる。
さらに、、、ひとつ前は見えなかったが、私自身、社会科学系コンサルティングに就職して分かったことがある。プロジェクトから学ぶのは、リサーチの方法論やサーベイを書いたりする技術だけではない。マネージメントのスキルである。プロジェクトが大きくなると、役割を与えられて、普通の人以上に責任を持たされる人がでてくる。そういう人は私のような研究所で働くときに、比較的早く責任をもたされてマネージを任されることがある。私の同僚は、就職して一年ぐらいだが、大学院時代にRAとして大きなチームのリーダーをしていたらしい。だから、その経験を買われて、比較的早い時期に大きな責任をまかされている。
このように大学院というのは、単なる勉強の場所ではなくて、キャリアの一部なのである。確かに大学院というのは準備期間で、就職するまではキャリアが始まらないという感覚があるが、大学院での修行も、キャリアの一部として考えるべきだと思う。
<あ、ところで今は、もっとキャリアの構造が分かってきたのだけど、博士号は長すぎるので、修士号あたりでも、良かったかもしれないと思う。結構、仕事を始めてからの経験が物を言うので。>
第8節 大学院生活で「大変」だったのは1,2年目だけ、、、!?
最初の2年間はまじめに授業をとることになる。まじめに授業をとらないというわけではないが、3年目からは成績をもらうのではなくて、合格不合格(Pass or non-Pass)で登録できるので楽である。これだと、成績を心配しなくていい。最初の2年は成績が重要である。これは学費免除とか、財政援助に関わってくる。このことに関してはあとで述べる。留学には金がいるが、多くの読者にとっての関心時であろう。あとで議論することになるが、留学に大切なのは金と英語力、これだけのような気がする。その他、たとえば力は後からついてくる。
3年め以降は、特にとりたいものがなく、修士論文や博士論文に集中する場合は、指導教授のリーディングコースをとることになる。授業がなく、ただたまに教授に会って指導を受けるというコースである。授業をとらないことの「いいわけ」的なアレンジメントがこれである。4年目あたりからは、たいてい博士論文に集中することになる。博士号取得まで何年かかるかが気になるところだが、公式のウェブサイトには、4年で完了できるようにカリキュラムがくまれているが、普通は6年以上かかる、、と記してある。私のコホートの場合は、私を含める3,4人が5年半で、同じ学期に博士をとった。その他の人はおそらく、7,8年というところだろう。なかには10年以上かかける人もいる。
ただし、これはシカゴ大学の話であり、博士に何年かけるかは大学によって大きく異なるようだ。私の同僚などは3年とか4年で修士博士を終えている人がたくさんいるが、シカゴのように時間のかかる大学の感覚でいうと、「えっ、そんなんでいいの?」とびっくりしてしまう。不思議なもので、博士に時間がかかりすぎるのは、やってるうちはとても嫌なのだが、シカゴでは皆がやっているわけだから、はやくできすぎてもあまりいい気がしない。
<やっぱり、早く終わるに限るよ、、、と今は思う。だってね、仕事を始めるとやっぱりまともに税金払って、年金(SOCIAL SECURITY)払うわけだけど、そうしないと年金もらえんでしょう。さらに、それだけじゃなくて、早く就職してる人達は、退職金積み立てを(株運用による)でしているんです。アメリカでは。そういうのを早く始めたほうが良いと思う。>
最初の1,2年が一番大変だった。基本的なコースほど、読む本が広範囲にわたるため、読書量が多い。さらに、プレゼンテーションをさせられたり、当然ペーパーを書かされることになる。まだ要領がわからないので大変である。
例えば社会学301という授業がある。これはいわゆる社会学概論、英語だとSOCIOLOGY COREと言う。最初の5週間をコールマン先生が教え、後の5週間をアボット先生が教えた。社会学への洗礼のような授業だ。例えば、コールマン先生は「権威」などのような基本的な社会学概念を、多くの文献を読ませ、レクチャーし、議論させ、そしてペーパーを学生に書かせ、またプレゼンテーションさせた。ペーパートピックは、授業で登場した概念について、それぞれの学生が自分の体験をもとに議論するというものだった。なぜ「体験」かというと、それなりにコールマン先生のこだわりがあったようだが、詳しい理由は忘れてしまった。ただ、同級生たちのいろいろな体験を、最初のコースで知ることができた。
<ある会社で、同僚が、「え、シカゴを行ったのか?うちのお父さんが、実は社会学の先生だったんだよ」と言ってきて、えええええ?あのコールマン先生の息子さん?ということになった。
コールマン先生は、1995年ごろにガンでなくなってしまったのだが、そのとき、コールマン先生がやっていた未発表の論文を私がたまたま所持していたので、息子さんにあげた。>
例えば、私は高校教師時代、うけもったバレー部で、部員が「声」を出すということが、部員の先輩後輩間の「権力関係」を保つ装置であったかどうか、をペーパーに書き、プレゼンテーションを行った。日本では、スポーツ練習中に声を出すということを、アメリカ人の学友は始めて知って、面白がっていた。日本人の側からすると、学校でのスポーツ練習が静かに行われていることのほうが、驚きだった。当時、住んでいたインターナショナルハウスからから大学までの間に、付属高校のテニスコートがある。そこを毎日通っていたのだが、高校生がとても静かにプレイしているのである。<続く、、、ここで力が尽きたようです。>
なぜアメリカの大学院に来ることをすすめるのか
ここではアメリカの大学院へ進学することを皆さんにすすめたい。
理由は、日本の大学院は、変な先生にあたったら研究人生が終わりということと、変な先生にあたるかどうかは運なので、投資するには恐ろしすぎるからやめておいたら、、、ということなのだ。
日本の大学院は教授との関係などが大変だ。怒られたりするし、嫌われたら研究人生が終わりである。私が知っている日本の先生は人格者が多かった。彼らが問題なのではない、問題は時々いる変な先生だ。
変な人についたら研究人生の終わりである。へんな人を引くかどうかは、くじ引きみたいなもんだから、入学前から分からない。入学した段階で、試験などを経てきているから、投資が大きく、引くに引けない。いやな先生でも、他に行きにくいから、がまんするしかないのである。
<と、書いたのは、アメリカの景気が良かったときです。また自分自身がアメリカドリームを少しだけ信じていたときです。今だと、たぶん、カナダとか、ヨーロッパを勧めるかもしれません。なぜかというと保険事情がアメリカよりよさそうだからです。アメリカは医療が高すぎる。でも、現在、2010年、オバマ政権ががんばっているので、様子を見守りたい。
今は、うちの母方のおばあちゃんが言っていたのだけど、「あんまり遠くにいきんさんな」という気持ちがある。>
就職のためにも米国大学院留学をすすめる
学生ががまんするのは、きっとその先生についておれば就職があると信じているからである。しかし、先生のほうは、本当にそれを保障してくれるのだろうか。良心的な先生たちは、すでにそういう期待を持つことをしないようにと薦めているはずである。
迷惑なのは、就職を世話する実力もないのに、そういうふりをするケースである。また今の時代、大学の就職先があまりない氷河期なのだ。大学に進学する子供も少ないので、大学の教員はいらない。
また、これは私の独断ではあるが、今の就職は日本人でもアメリカから博士号を持って帰ってきた人が断然優位なので、日本の大学院に行くのは損なのではないか。現在、日本の大学は就職氷河期なのだが、私でさえ、まったく日本で就職活動をしなかったのに、メールで3箇所ぐらい誘われた。
日本の就職はあたかも公募のような形をみせているけれども、実は多くが、教授たちの推薦でまずは決定されるのである。
日本の大学にはアメリカからのPHDを持った人がたくさんいるのだが、その人たちを通じて、アメリカでPHDが終わりそうな日本人学生が紹介されるのである。
全ての分野を知っているわけではないのだが、私の知っている日本人でPHDを持っている人は殆ど100%日本に帰国して、大学の教授職につけている。日本の大学が就職氷河期と言われている時代にである。
<これは2000年ぐらいのときの話です。今はどうなんでしょうか?>
私自身の独断になってしまった本当に申し訳ない。が、日本にいる変な先生についた学生は本当に悲惨である。就職を世話してやるという顔をしながら、自分が退職するまで大学が持てばよいと考えている人などにつくと、学生はどうしたらよいのか。当然良心的な先生が大多数である。しかし運が悪かったら、どうなるのか。変な先生から、守ってくれるような仕組みが大学にあるのだろうか。
アメリカであれば、人間関係のしがらみがないので自由に学問をすることができる。
<2010年現在は、私は、人生にとって大切なのは、楽しいときを、いい人達と、また良い家族と過ごすことだと思っています。だから、振り返って考えて、あそこまで勉強した大学院生活が、はたしてよかったのか、よく分かりません。まあ、とにかく、英語喉50のメソッドやってみてください。人生変わりますよ。英語喉で英語を喋っていなかったので、アメリカ人の友達があまりできませんでした。英語喉を2006年ごろ始めて、アメリカ人が非常にフレンドリーになり、アメリカ生活を楽しめるようになりました。>