読者は、文章を左から右に読む。このことから分かることーー>読者が読みづらいと感じる文章とは、この単純な生理的現象にさからうような文章である。例えば、悪い文章は、読者の眼球を右に左に、左に右にいったりきたりさせる。いい文章は左から右に読んで、すんなりと分かるものを指す。ここで例を上げる。
悪文:猫がネズミを追いかけた。私は公園で散歩していて、この光景を目撃した。
良い例:猫がネズミを追いかけた。この光景を、私は公園で散歩していて、目撃した。
誰もが、後者の文章を好むと思う。なぜか?最初の悪い文章では、第一節めと2節め、つまり、「猫がネズミをおいかけた」と「私は公園を散歩していて」が意味的に関係していない。読者がこの二つの節の関係を知るためには、この文章を最後まで読み終わらないといけない(時間がかかる)。
下手をすると、最後まで読み切った段階で、「この光景」が何を指すのかを読者が忘れてしまう。そして、主語を探すべく、眼球が右から左に動き「オキテ」が破られることになる。一方、後者の良い文章においては、この問題がない。節の間の意味的関連がはっきりしているから、文章の意味が、眼球の左から右への動きと同時に、理解されるのである。
まず、自分の研究計画を読み直すときに、眼球がふと止まった部分、あるいは眼球が左から右以外の動きを見せた部分に下線を引くべし。そして、その部分を書き直す。これを「眼球書き直しの術」と、呼ぶ。上の例を使うなら、こんな感じで線を引く。
猫がネズミを追いかけた。私は公園で散歩していて、この光景を目撃した。
さて、問題の部分を書き直すわけだが、「なぜ眼球がふと逆行したのか」を考えてみることが大切だ。理由を考えるのだ。
上の例でいえば、第1文と第2文の間のつながりが悪い、、、ということがいえる。「うーん、なんとか、うまくつなぐ方法は無いかなあ、、、接続詞かなあ(そして)、、、うーん。」って感じで頭の中でうなるとよい。
結局、接続詞じゃなくて、「この光景を」という部分を移動させることで、解決した。必ずしも、接続詞をつかわなくてもいいんだな、、、語順を直せばいいんだな、、、と納得してみる。
猫がネズミを追いかけた。この光景を、私は公園で散歩していて、目撃した。
このように考えること、そして書き直すことをしばらく続けていると、自分の犯しやすい問題が分かってくる。で、もっと続けているとどうなるか。自然と、そういう問題を回避しながら書く癖ができるのである。
私が犯しやすい問題をちょっと整理しておく。あくまでも私のことであるから、皆さんは皆さん自身で自分の弱点を知らないといけない。
- 主語と述語が離れすぎ
- 名詞が何個も繋がっている(例 日本の経済の復活の兆し)
- 文の構造があまりに複雑。
とかいろいろ考えればパターンが分かってくる。考えながら「眼球書き直しの術」を実践しておれば、そのうち5つぐらいの自分の弱点のパターンがわかってくる。それらに自分なりの名前をつけておく。「あ、またやっちゃった、俺の悪いくせ主語述語乖離問題だぜ」なーんて、ぶつぶついいながら書いているうちに、脳内の書き方の文法をつかさどるニュートロンが整理整頓されてくるはずだ。さて、解決方法も自然と身についてくる。
- 主語と述語が離れすぎ ――> 解決方法 語順を変える
- 名詞が何個も繋がっている(例 日本の経済の復活の兆し) ――>できるだけ名詞をさけ、動詞を使う。 (これはあとで説明)
- 文の構造があまりに複雑。――>あえて「 」や「、、、」を使ってみる。これもあとで説明。
あとで説明といったけども、気になる読者もいると思うので、最後の点について例をだしておく。著者自身の文章から例をだす。
構造が複雑すぎ
第2のステップ(チャレンジ)は、学習者が喉で音を響かせることを目的とする。
括弧をつかってみた。ちょっとスッキリした。ただ、「 」の多用を好まない校正のスタイルもあるので、注意。
第2のステップ(チャレンジ)は、「学習者が喉で音を響かせること」を目的とする。
研究者の仕事は複雑で一見ランダムにみえる現象からパターンを発見し、そしてそのパターンをうまく説明する理論を導き出すことだが、まずは、自分の頭のなかに存在する「書き方のスタイル」をこのように解明してほしい。ただやみくもに書いても、上達しない。考えること、実際に、直してみることの繰り返しによって、自分の脳の中に、システムをつくるのである。
ちなみに、新聞の文章は、この術が完全なほどにマスターされている。眠い読者の眼球に無理を与えるような文章を書いていては読者の理解は掴めない。ここで、オキテを思い出してほしい。あなたの研究計画を読む審査員は、日曜の午後、いやいやながら君の文章を読んでいるのだ。審査員の眼球の動きを乱すときっと、奴は君のイントロと結論を読むだけで、君の努力の結晶である研究計画の質を判断してしまうであろう。
新聞の文章と書いたが、これは英語圏の新聞のことだ。残念ながら、日本の新聞は、非常に読みにくい語順が採用されている、、、と感じる。
電光掲示板を思い出してほしい。新幹線にのると、掲示板にテロップが流れるが、じっと見ていると見事なほどにうまく書かれた文を読むことができる。うまく書かれていないと、分からなくなってしまうのが電工掲示板だ。特に語順に工夫がいるのだろう。
さて、上のことを知った上で、いわゆる悪文について考察してみたい。以下の文章はXXマネー情報というHPから拝借した(読むのが面倒な人も、せめて1行目だけでも読んでください)。
大規模な介入による円安政策の効果
日銀に対し長期国債購入の要請が高まっているが、長期金利の低下余地が小さいため、景気刺激効果は限られる。また、その効果は株価や為替相場などの資産価格の変化に依存するため、不確実である。一方、為替相場の円安は輸出企業の収益を押し上げ、総需要を刺激する効果が大きい。「非正統的な金融政策」を行うのであれば、金利から為替への不安定な経路をあてにせず、大規模な介入によって為替レートに直接働きかけるべきである。現状より円安水準の固定レートで、無制限に外国為替の購入を宣言し、大規模な円売り介入を行えばよい。
目の玉の動きが狂ってしまうような文章である。理由を考察してみよう。自分でしばらく考えて考えてから読み進んでみてください。といっても、そんなこともしたくなくなるような極悪文である。
第1点は「主語が定まりにくい」という点だ。人間が文章を読む時に、まず主語を探し、そしてその述語を探すように頭脳は働く。したがって、主語が(そして述語が)見つかりにくい文章は眼球を混乱させる。
第一文で考えてみる。まず、名詞にぶち当たったら、それが主語かなと考えるのが、人情。「日銀に対し」は、すぐに「対し」という言葉がでてくるので、「日銀」を主語とは、考えないだろうが、その次の名詞「長期国債購入」と読んだ時点で、「これは主語だな」と人は思う。しかし、「、、、購入の」ときたところで、「あれ?主語じゃないな」と分かる。そして、「要請が」の「が」まできて、読者は初めて、要請が主語であることを知る。この時点で、読者は「要請」といっても、なんの要請だったかを忘れているので、後戻りして読むことになる。つまり眼球の逆行である。
第2点は論理の飛躍が引き起こす目の玉の乱れである。第一文において著者は、「長期国際購入の要請」がなぜ長期金利に関係しているのかを説明していない。したがって、読者はこの文章を何回も読むことになり、目の玉を疲れさせてしまう。
第3点は、弱い接続語の問題である。第2の文章と第3の文章は、「また、」と「一方」という接続語が使われている。文章間を意味的につなぐのがこれら接続語の役目であるが、どういう意味で「また」なのか、何にたいして「一方」なのかは、読者が前後の文章を数回読むことによってはじめて理解できるようになっている。またしても、眼球の疲労である。
第4点は、弱い指示語である。第2文の「その効果」の「その」は何を指すのだろう。これまた、眼球を左に走らせなければならない。これらの分析で分かるように、眼球を疲れさす理由は、いろいろある。これらの問題点を意識することが、問題回避につながる。
さて、上の悪文で、目の玉問題同様に深刻なのは、「何が何をする」という行為者と行為の構造が文章に見えてこないことである。読者は、何が(主語)、何をする(述語)ということを意味的につかんで始めて文章を分かったと実感する。この原則を著者は早くも、最初の句において無視している。(この文だけを悪玉にあげたけど、こういうの結構、普通。高校の時の数学の教科書でも読み直してみてください。頭がくらくらする。こんなんで、俺は自分の人生を決定されてしまったのか、、、責任者だせ、、、みたいな。)
日銀に対し長期国債購入の要請が高まっているが、
誰が一体この要請をしているのかが分からない。主語がないのである(意味的な)。いや、主語はあるにはある(形式的にはね)。「要請が」が主語である。しかし、ここでいっているのは、形式的、文法的な主語ではなく、実際に行為をしている主語のことである。主語の代わりに「動作主」、そして述語の代わりに「行為」という言葉を使った方がいいかもしれない。ここで、2つあるうちの、一つの法則を述べる。
動作主が実際に存在する人とか組織であれば、一番わかりやすい。「日銀に対し長期国債購入の要請が高まっているが」のかわりに、「金融業界が、、、を望んでいる」と書けば、読者の頭のなかに、はっきりくっきり「誰が、何をする」という構図が植え込まれる。
しかし、いつもいつも動作主が人間だとは限らない。やはり、例文にあるような抽象名詞、(つまり「要請」)をどうしても使わなければなるまい。化学の研究計画であれば酸素が、心理学の計画書であればエゴが、主語になるであろう。その場合でも、かならず、その主語が動作主であり、述語が行為であるということがはっきり分かるように書くこと。動作主と述語以外の言葉はたとえば形容詞だとか副詞だが、これらの言葉は読者の根本的理解を「飾り」はしても、助けはしない。
さて、2番目の法則は、あまり言われていないことだ。
同じパラグラフの中では、できるだけ同一の動作主を使って文章を始める。
パラグラフのなかのできるかぎり(自然な限り)多くの文章を同じ動作主で始めるということだ。同じ言葉を使う必要はない。表現を微妙に変えるのだ。例文。
からすが私の家の屋根に巣を作った。かーかー泣く。奴は俺を怒らせていることには気づかない。所詮、鳥である。
違う表現を使ったり、省略してみたりするが、全ての文章で動作主はからすである。読者は、それぞれの文章に出くわすたびに、動作主と行為をまず最初に決定しようとするが、この文章では常に同じ動作主がでてくるので、理解が楽である。それでは、少しわかりにくい文章を、あえて動作主をかえることによって書いてみる。
私は家の屋根にからすの巣を発見した。かーかー泣く。俺のいかりは最高潮に達した。からすは所詮ばかな鳥である。
悪文というほどではないが、文章のたびに頭脳がフル回転せねばならず、大変だ。特に専門用語の多く、内容の難しい研究書となると、この頭脳のエネルギーの浪費は致命的である。忙しい読者なら、いやになってきて君の研究計画書を投げてしまうかもしれない。
専門用語の多用が問題ではなく、名詞の多用が問題文章が難解になるのは専門用語が多いからではない。専門用語が増えると、名詞が増えることが問題である。
なぜ名詞が増えると困るのか?上に述べた法則に立ち戻る。人は動作主と行為をつかんで初めて、文章を理解する。名詞が多いと、この動作主ー行為のが掴みにくくなる。次の例文をみてほしい。名詞が多くても、常識が助けてくれて、意味が分かりやすい例だ。
パンにバター、そしてワインが最高だ。
この文章は、構造的にはわかりやすいものではないが、パン、バター、ワインと常識でそれらの名詞間の関係そして、それらの名詞と動作主との関係がわかる。それでは、次のわかりにくい例を見てみる。
ヒポカンプスにインファークションとくれば、ゲルストマンの可能性がある。
名詞だけでは、名詞間の関係、動作主と行為の関係が全くみえてこない。種明かしをすれば、ヒポカンプスは脳内にある海馬という部分を指す。インファークションは梗塞(こうそく)である。ゲルストマンはある症候群である。この知識があれば、動作主と行為の関係がわかるのだが(つまり、「海馬」が「梗塞」をもつということ、「梗塞」がゲルストマンをひきおこすということ)。
だからといって名詞を使うなということではないし、専門用語を使うなということではない。名詞同志の間の関係、そして名詞のあいだにうずもれて見えてきにくい「動作主」と「行為」の関係がわかるような文章を書きましょうということだ。
よく「あの人の話は専門用語がありすぎて分からない」というような言い方をする。実は、専門用語だから分からない、、、ということだけではなくて、名詞が多すぎるから分からない、、、という部分が大きいのだ。
昔、化学の授業で、化学反応式というのを学んだ。そのとき、「元素は手をつなぐ」というメタファーをつかって、先生が説明をしてくれたのを覚えている。H2Oでいくと、HとかOは手の数が決まっていて、その手がつなぎあうことで、HとOがくっつく、、、ということだったと思う。
それに似ている。
名詞は手をつなぐことができないのである。名詞は、どかーんと目のまえにおかれると、その名詞が、文章のその他の部分にどのようにつながっているか、わかりにくいのだ。
でも、英語では、名詞でもよく手をつなぐ。定冠詞というのが、ある。THE PENとくると、ただ単にPENじゃなくて、そのPENという単語がでてくる以前に言及されたPENである、、、という風に、THEがPENを、先行するコンセプトとつないでくれる。
つまり、日本人にとっては習得の難しい定冠詞だが、なかったらないで困るのである。
自分の頭のなかに、データバンクをつくる。
すでに述べたことだが、もう一度、書くことにする。まず、自分の書いた文章をゆっくり読む。このとき、読み返さずに読む。電光掲示板のように読むのである。そして、分からなくなった部分に線を引く。そして、なぜそこに線を引かねばならなかったのかを考える。
考えているうちに、パターンに気づく。自分の文章が分からなくなる理由のパターンである。
同じようなパターンに出会うたびに、それに「名前」をつけておく。自分の犯しやすい問題に名前をつけるのである。
例えば、私の場合、最近日本語でハンドブックのようなものを執筆したが(社会の見方計り方)、校正者のかたに、やたらカタカナ英語が多いということと、「――ということ」という表現が多いと指摘を受けた。
前者はカタカナ問題。後者は、「安易に文章の一部を名詞句化してしまう問題」。「―――ということ」という表現は、眼球後戻りの原因となる。主文と思って読んでいた文がいきなり名詞になってしまう、、、、、ということ(これが例。混乱するでしょ?)。
こうして、以前は無意識だったものを意識化する。その上で、書きすすめると、今度は意識せずとも、問題を起こさなくなる。
練習の例
このような形で練習をするとよい、、、という見本を見せたい。ここで使う文章は、私とジーナの書いた本、英語喉が何を発見したのかを、いそいで書き上げたものだ。元々英語で考えたものを、訳した感じがし、かたくるしいところがあり、つっこみどころ満載なのだ。
英語喉が提供するのは、(ア)ヨーロッパ言語の発音(英語を含む)の教授メソッドであり、また(イ)ヨーロッパ言語の音の表現システムである。我々の発見は、ヨーロッパ言語の話者は主に喉で音を響かせ発音し、東洋言語の話者は主に口で音を響かせるというものである(喉の法則)。そして、この発見に基づいて、我々が発明したのは、ヨーロッパ言語を母語とするネイティブと同じ喉の使い方に、学習者を慣らすための方法である。
まずはゆっくり読んでみて、眼球が止まるところに色をつけてみる。*番号*も振ってみた。
英語喉が提供するのは、(ア)ヨーロッパ言語の発音*1*(英語を含む)の教授メソッドであり、また(イ)ヨーロッパ言語*2*の音の表現システムである。*3*我々の発見は、ヨーロッパ言語の話者*4*は主に喉で音を響かせ発音し、東洋言語の話者は主に口で音を*5*響かせるというものである(喉の法則)。そして、*6*この発見に基づいて、我々が発明したのは、*6*ヨーロッパ言語を母語とするネイティブと同じ喉の使い方に、学習者を慣らすための方法である。
なんで眼球が停止したのだろう。
1.
名詞句が長すぎた、、、ヨーロッパ言語の発音*1*(英語を含む)の教授メソッド。
2.
同じ理由
3.
我々の発見は、、、「誰や、これは」とちらっと思って、読みがとまってしまった。よけいなことを考えさせてしまっている。英訳だからか。
などなど
、、、という感じ。
というわけで、読者各自がまずは書いてみて、それを読み直し、目がとまった、逆行した場所に下線を引き(やっているうちに、線を引かなくても、頭のなかできるようになる)、その理由を深く考え(やっているうちに、浅い考えでも、うまく直せるようになる)、最後に書き直すのだ(やっているうちに、第1稿から書き直しが、あまりいらない文章が書けるようになる。
さて、眼球逆行問題の私の解決方法を紹介したい。ただし、これは上の実践をやっていれば、自然と気づくことだ。だから、以下を読まなくても、いつかは到達するものばかりである。とはいえ、具体的に一つ一つ見ていくことには意義はあると思う。うーん、こんな感じのテクニックが身につくのか、、、と知っておくとよいと思う。
内容の並べ方について考えてみよう。目が逆行する文章の構造は
新情報 旧情報
という順番になっていることがある。これを
旧情報 新情報
の順番に変えなければならない。
悪い例(新情報 旧情報)から見ていこう。いきなり新しいことを言われても、「分からんちゅーんじゃ」という感じだ。
悪い例:猫がネズミを追いかけた。私は公園で散歩していて、この光景を目撃した。
最初の文はおいておいて、色をつけた部分をみてほしい。
「私は」という部分だが、第1文では猫とネズミしか登場していないのに、いきなり「私は」が現れた。これは新情報である。いきなりでてきたので、読者にとっては新しい情報である。だからダメ。
「私は公園で」と長めに考えてみても、やっぱりダメだ。新情報なのだ。急に、公園という概念が登場。あまりにいきなりすぎるのだ。
どうやったら、第2文を旧情報(すでに読者が知っていて、知っているからこそホットする、、、納得しやすい情報)から始めることができるだろうか?「この光景を」という表現を使って、第2文を始めることで解決できた。
良い例:猫がネズミを追いかけた。この光景を、私は公園で散歩していて、目撃した。
「この光景」は読者にとって旧情報(もう知っていること)である。第1文で描かれたこと、猫がネズミを追いかけた、、、を指しているからである。
他にもいくつかの解決法があると思う。
猫がネズミを追いかけた。その時、私は公園で散歩していて、この光景を目撃した。
「その時」をつけてみた。私は、、、とのつながりもなんとなくいい。
特に学術的な文章では、文の構造が複雑となりがちで、眼球を苦労させる。
悪い例 八百屋の横のスーパーの豆腐の値段を知りたい。
名詞が「の」でつながりすぎ。わけがわからん。
良い例 八百屋の横にはスーパーがある。そのスーパーでは、「豆腐がいくらなのか」を私は知りたい。
あまりに突然なことを言うと、おもわず眼球が止まってしまう、、、というか、頭が真っ白になってしまう。
悪い例 八百屋の横にはスーパーがある。そのスーパーが昨日全焼した。
良い例 八百屋の横にはスーパーがある。なんという悲劇だろうか。そのスーパーが昨日全焼してしまった。
悪い例 送ってくれてありがとう。コンサートには遅れてしまいました。
良い例 送ってくれてありがとう。残念ながら、コンサートには遅れてしまいました。
文がつながるところで、ちょっと価値観、評価を含んだ表現を使うことで、ショックを防ぐ、、、というか、次に言うことをすんなりと受け入れてくれるように読者をならすのだ。そういう表現には、色々ある。残念ながら、幸運なことに、ところが、ただし、逆説的だが、、、などである。
ネスティングとは英語でNESTINGということだが、例えば以下のような構造のことを指す。
私には(私より2歳年上の姉)がいます。
括弧に入れた部分自体が、それだけでえらく複雑な構造をもっていて、それが、一つの文のなかにはまっている。
このネスティングがひどいと、文がわかりにくくなり、眼球がとまってしまうのだ。ほぐしてみよう。
私には姉がいます。その姉は私よりも2歳年上です。
これは英語ではTHAT節にあたるのだろう。
悪い例 私が日本人であるということは、すき焼きがすきだということです。
英語だとTHATが先にくるので、「ああ、ここからが節だな」と分かるが、日本語では、「、、、ということ」の部分が後でくる。だから、じゃんけんの「あとだし」みたいなのだが、ああ、ここからここまでが節だったんだ、、、ということが、後にならないと分からない(これ意味分かる?)
良い例 私は日本人です。当然、すき焼きがすきです。
あと、これは私が勝手に開発した表記法なのだが、「、、、」と点を三つ加えると分かりやすくなる。
良い例 私が日本人であるということ、、、は、すき焼きがすきだ、、、ということです。
しかし、これは私が勝手にやっていること、、、、であるからして、そんなのいやだ、、、という読者もいるだろう。かわりに括弧を使ってもよい。
良い例 私が「日本人である」ということは、「すき焼きがすきだ」ということです。
呼び方がよく分からないので、適当に上のタイトルをつけた。例で理解してほしい。括弧のところに注目。括弧をつけたから、母音と舌の位置関係、、、ということの意味がはっきりしたと思う。
この画像は、口の中を示しており、「母音」と「舌」の位置関係を示している。
括弧をはずしたら、ちょっと読みにくくなる。
この画像は、口の中を示しており、母音と舌の位置関係を示している。
思うに、「母音と」、「舌の」、と「位置関係」という単語群の間の関係が括弧を使うことではっきりするのだと思う。
あ、上に書いた文では、太字も使ってみました。太字、斜めの自体なども、意味を明確にしますね。上の文から、括弧、太字、斜め字を抜いてみると、分かりにくくなります。
悪い例
思うに、母音と舌のと位置関係という単語群の間の関係が括弧を使うことではっきりするのだと思う。
わけがわからんでしょ。
句読点(、)のうちかたによって、文内の構造を整理することができる。句読点というのは、あらかじめ決まったやり方があるわけではない。著者として、どういう風に読者に理解してほしいかを戦略的にコントロールするためにあるのだ。
句読点ありだと意味がとりやすい。
この違いこそが、例えば、日本人がヨーロッパ言語を、近似値的にしか、真似ることができない原因であり、ネイティブと同じ音を出すことができていない理由である。
句読点なしだと意味がとりにくい。
この違いこそが例えば日本人がヨーロッパ言語を近似値的にしか真似ることができない原因でありネイティブと同じ音を出すことができていない理由である。
どこからどこまでが意味上の塊なのかを示すのが句読点である。
段落をどう変えるか。意味的に一つのまとまりとなる文の塊を、段落とする、、、というのは常套手段であり、間違っているわけではない。が、もう一つの戦略として、そこで区切ってしまうと、眼球がすんなり動く、、、ことがある。
例として、前に書いた文章をあげる。
名詞だけでは、名詞間の関係、動作主と行為の関係が全くみえてこない。種明かしをすれば、ヒポカンプスは脳内にある海馬という部分を指す。インファークションは梗塞(こうそく)である。ゲルストマンはある症候群である。この知識があれば、動作主と行為の関係がわかるのだが(つまり、「海馬」が「梗塞」をもつということ、「梗塞」がゲルストマンをひきおこすということ)。
最後に付け足した、括弧は、補足説明。括弧にいれないことも可能だが、全体のトーンが狂うように思う。括弧の前までは、ややフォーマルな筆の運びかたをしていて、急に砕けた表現になる場合、読者が驚いてしまい、眼球の動きが乱れる。括弧を使うことで、ちょっと、トーンが違いますよ、、、ということを示す。
メタコメントというのは、以下のような表現。
「すでに述べたことだが、」
「後で説明するが、」
あまりにも難しすぎて、どうせ読者に伝わらないことがある。でも書かなければいけないこともある。例えば、難しい数式を紹介する場合。その場合は、とりあえずは、それを全て理解する必要はないことを示唆して、読者の心配をといてやる。例えば、
XXXYYYXX(これ式)
ここの議論において、重要な部分はYYYのみである。
日本語の表記法の問題点は、同意語が多いために、混乱がおきてしまうことだと思う。
貴社の記者は汽車で帰社しました。
というのがいい例だ。ひらがなでかくとわけがわからない。
そこで、漢字、カタカナ、アルファベットを効果的につかって、すっきりさせるとよい。
これは英語ではパラレリズムと呼んでいる項目だ。平衡感覚をとる、、、というイメージだろう。
悪い例 レストランでの飲食と、山で遊ぶこと
飲食は漢字なのだが、「遊ぶこと」のほうは、ひらがないりで、口語的だ。バランスが悪い。直すとすれば、
レストランでの飲食と、山で散策
あるいは
レストランで食べることと、山で遊ぶこと
どちらかに統一したほうがよい。バランスが悪いと、文のなかの意味上のかたまりがつかみにくい。
しかし、したがって、ただ、すなわち、、、
効果的に使えば、効果的である。ただ、やりすぎるとダメ。ちょっと逆説的だけど、あえて、これらの表現をつかわなくても、接続がスムーズにいっている、、、というのがテクニックかもしれない。
どこに駅があるかということを私は知りたい。
――>私が知りたいのは駅がどこにあるかです。
――>私が知りたいのは、駅の位置です。
日本語の弱点?として、動詞が文の最後に来がちな点です。最後まで読まないと、それが否定なのか肯定なのかも分からない、、、というのは有名な話。だから、上のような工夫で、できるだけ早いうちに要点を言ってしまう。
色々、自分自身のテクニックを書いたが、大切なのは、自分で考えて、自分で練習し、自分の道具箱をつくりあげることである。
少なくとも私の世代では、そして新しい世代においても、エッセイを書くことは公教育のなかで実践されていない。グローバルな社会で激しい競争が起こっている。また中国が次世代の「日本」、つまりこれまでの日本のような存在として台頭するなか、国家による教育投資は国家経済の死活問題である。
この混迷の時代、なんと、受験用のテスト問題をこなすと頭が良くなる、、というような論調のイデオロギーが日本に台頭している。それは、そういうことを言っている人たち自身が、受験の勝利者であるからではないだろうか。またそういう人たちは、すでに就職しており、今後、努力をして、世界経済を乗り切っていく必要はない。
若手の世代というのは、今後、本当に世界経済の波の中で、自分のスキルを糧に生きていかなければならにのだ。乗り切るためには、非常に大切なことの一つがコミュニケーション能力であり、書く力である。
書く力は、本稿で解説したとおり、「スムーズな眼球の動き」を大切にしながら、書き、書き直しておれば、自然と身につくものなのだ。それ以外の方法で、書く力をつけることはできない。
さて、このことを実践していく上で、困難となるのは、受験だ。現代国語においては、わざとわかりにくい文が採用され、代名詞「これ」が指すのは何か、次から選べ、、、というような問題が問われる。
はっきりいって、「これ」と書いてあって、その意味を考えないといけないような文章は、悪文なのである。
指摘しておきたいことがある。日本の教育システムのなかで、書く教育が存在しない(これは大問題)。小学校のときの読書感想文を最後とし、中学、高校、大学、、、と書くという実践が起こらない。そうしているあいだに、世界のいろんな国では、子供たちが猛烈に書く練習、考える訓練を積んでいる。中国でさえ、大学入試にはエッセイの試験があり、大学を目指す高校生は猛烈に書く訓練をしている。日本の大学試験は、あまりに受験料徴収のための商業主義に走りすぎてしまっているのではないだろうか。近年、小学校から英語をやると国語がおろそかになる、、、という危惧がある。が、それ以前に全般的に「書く指導」があまりに手薄なのではないだろうか。英語がどうのこうの、、、という前に。
小学校のときに句読点の打ち方でつまずいた。でも中学、高校、大学と別に問題なくすごした。だって、エッセイの宿題なんてないし、あっても、添削されて帰ってくるわけじゃない。読まれていたかどうかも不明。ただ、小学校の同級生が、呼吸法というのを教えてくれたのを思い出す。読んでいて、息が続かなくなったら点を打て、、、と。全然訳にたたなかった。